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世界の武器術・剣術!!

2017年09月

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森寅雄


現在、剣術系競技の2大メジャーと言えば、日本の剣道と西洋のフェンシングが挙げられますが、その両方を極めた天才剣士が「タイガー・モリ」こと森寅雄です。

moritorao.jpg


■生い立ち

森寅雄は、1914年(大正3年)6月11日、群馬県桐生市に生まれました。

寅雄の曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人に数えられる達人・森要蔵。会津戦争で幕府軍として参戦した要蔵の見事な戦いぶりは、板垣退助をはじめとする敵軍さえも感嘆させたと言います。このとき要蔵とともに奮戦した息子の名が「寅雄」であり、森寅雄の名はそこから取ったものでした。

そして寅雄の叔父は野間清治。講談社を創業し、報知新聞社社長を務め「出版王」とよばれた人物。寅雄は8歳のときにこの野間清治のもとへ養子に出されます。清治には寅雄より5歳年上の息子・恒(ひさし)がおり、2人は実の兄弟のようにいっしょに育っていきます。

寅雄は清治の主宰する野間道場と巣鴨中学剣道部で剣道に打ち込み、メキメキと上達していきましたが、15歳ごろからは野間道場に師範として招聘された「昭和の剣聖」持田盛二からも指導を受け、日本屈指の実力を持つ剣士に成長しました。






■天覧試合

そんな中、昭和9年、皇太子殿下の御誕生を祝う天覧武道大会が行われます。

天覧武道大会はその名の通り、天皇陛下が観戦する武道の大会ですが、定期的に行われるものではなく、皇室のなんらかの記念として不定期に行われるものです。

当時の天覧試合は他の大会とは別格に位置する大会で、現在のオリンピックやサッカーW杯以上に世間の注目を集めるものでした。そしてこの大会で優勝するということは競技者にとってこのうえない栄誉であり、一夜にして国民的英雄としての名声を手にすることになります。

この大会の東京予選に出場した寅雄は優勝候補の一角と目され圧倒的な強さで勝ち上がりますが、決勝で当たったのが野間恒。恒も日本屈指の実力者であり優勝候補の筆頭と目されており、この一戦は大いに注目されますが、試合は意外な形に終わります。

これまで圧倒的な強さを見せていた寅雄の動きがはなはだ精彩を欠き、そこへ恒の打ちがあっけなく決まり恒の勝利。その動きは「無気力」ともうつるものでした。

この一戦でのあまりにも不自然な寅雄の戦いぶりに、試合前、野間清治が恒に勝たせるために寅雄に因果を含めたため、との憶測が流れましたが、当の寅雄は後日この一戦について聞かれても、ただ笑うだけで答えなかったと言います。

寅雄との一戦に勝利した恒はそのまま本戦でも優勝。「昭和の大剣士」と称されました。いっぽうの寅雄は兵役のため、満州の戦車隊に赴任することとなります。






■渡米、フェンシングでの活躍

1年後、寅雄は兵役を終えて帰国。野間清治はゆくゆくは講談社を恒につがせ、報知新聞社を寅雄につがせるつもりでしたが、寅雄はそれを蹴り、渡米を決意。米国での剣道普及を目指します。

このあたり、野間清治への反発なのか、あるいは緊縛から解き放たれたかったのか、複雑な思いがあったかもしれません。

アメリカに渡った寅雄は精力的に剣道普及の活動を行いますが、それと並行して始めたのがフェンシングでした。

moritorao2.gif


寅雄の上達は著しく、フェンシングを学び始めてわずか2か月で南カリフォルニア選手権で優勝。さらにその4か月後に出場した全米選手権で準優勝。この大会の決勝戦は、寅雄が対戦相手を圧倒していたにも関わらず、排日的な審判員の不公平な判定によって負けにされたと言われます。しかしながら、わずか6か月の練習で実質全米一となった寅雄の活躍と強さは誰もが驚愕とともに認めざるをえず、「タイガー・モリ」の名は全米に響き渡ることとなりました。

この大会の後、いったん日本に帰国した寅雄は1940年に予定されている東京オリンピックへのメダル獲得に向け、練習を続けますが、第二次世界大戦の影響で開催は中止。選手としてのオリンピック出場の夢は潰えました。


■戦後

戦後は米軍相手のクラブを経営するなどで生計を立てながら、学生たちにフェンシングを指導。戦後日本のフェンシング界の発展に大きく貢献しました。

その後再渡米した寅雄はロスでフェンシングスクールを開校。38歳のときに出場したアメリカ西部の大会でいとも簡単に全戦全勝して優勝。変わらぬ強さを見せつけました。また剣道の普及活動も再開。日米交流戦や世界剣道選手権開催に向け尽力します。

1960年ローマオリンピック、1964年東京オリンピック、1968年メキシコオリンピックでは、アメリカフェンシングチームのコーチとして参加。モリフェンシングスクールには多くの弟子が入門し大盛況。また決闘シーンの演技指導を受けるため、多くのハリウッドの監督や役者たちもその門をたたきました。

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日米の剣道界、フェンシング界に多大な貢献をおこなった森寅雄でしたが、ようやくむかえた第1回世界剣道選手権大会開催の前年の1969年、剣道の稽古中に心筋梗塞で死去。享年54。

その44年後の2013年、寅雄は日本人として唯一の国際フェンシング連盟(FIE)殿堂入りを果たし、その名を永遠に称えられることとなりました。


■森寅雄の剣

寅雄はダンスを好み、その腰の動きを剣道に取り入れていたと言います。またフェンシングを始めてからはフェンシングの技術も積極的に剣道に取り入れようとしていたようです。

寅雄の剣を体験したものは「強い」とともに「美しい」剣道だったと口をそろえて言います。

剣道での得意技は片手突き、そして胴を打って浅いと見るや、すぐさま逆胴を打つ二段式の胴打ちが有名でした。

フェンシングでは突きだけでなく斬撃も許される「サーブル」を得意としていました。やはり剣道との互換性があったのでしょうか。

そんな森寅雄の貴重な動画がこちらです。





大きいほうが森寅雄ですね。TV番組のデモンストレーションですので、ほとんど力は出していないのでしょうし、段取りがあらかじめ決まっている部分もあるでしょうが、相手の攻撃を堂々と受けて立つ美しくもスケールの大きい戦いぶりのように思いました。最後の片手突きは得意技ですが、全力で打ったらとんでもない威力だろうな、と思いました。

ほかに気になった点は日本と中国をかんちがいした演出……ではなく、ときおり見られる足がらみですね。昔の剣道にはこういうテクニックがあったのですね。これがあるとないとでは全然試合の内容も結果も変わってきそうです。

もっとも昔の剣道は組み付いてぶん投げて面をはぎ取って打ち据えるみたいな荒っぽいこともあったようなので、これはまだおとなしいほうかもしれません。まあ、実戦的なことを考えるとそういう組み討ち的な戦いもありかもしれませんが、競技としては剣道なのか柔道なのかレスリングなのかわからなくなりますからね。

ただ、この足がらみくらいは、競技として成り立つ範囲だと思うので、通常の剣道とは別に「足あり」ルールとかもあったら面白いかもしれないなあ、と思いました。

それはさておき、森寅雄は剣道においても、フェンシングにおいても十分な実力を持ちながら、それとは無関係なところで、チャンピオンの座をのがしたり、オリンピックに出られなかったりと、はたから見ると「悲運の天才」といった感じです。実際こんなことばかりあっては、腐ってしまったり、投げやりになったり、歪んでしまっても不思議はありません。

しかし寅雄は、それを乗り越えたのか、もともとそこを目標にしていなかったのかわからないですが、そういったことがあっても、変わらず修行を続け、広く世界に出ていき、後輩のために道筋を作り、日米の剣道界にもフェンシング界にも多大な貢献をしたことは人間の大きさを感じますし、その武道精神には尊敬の念を抱かずにはいられないなあ、と思いました。

【関連グッズ】
tigermori.jpg
タイガー・モリと呼ばれた男―幻の剣士・森寅雄の生涯

  

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